30.専門性への転換を進めるキーン氏
ニュートン・ティンマーマン薬局がマネージドケアを拒否したことで、何人かの顧客は近隣の薬局に取られてしまった。1ブロック先にあるパスツール薬局のアミー L シメールさんは、「ニュートン・ティンマーマン薬局がマネージドケア取らないことによって、私達は本当に助けられました」と話している。キーンさんは、多くの顧客がニュートン・ティンマーマン薬局のサービスと専門技術に対して、快く代金を特別に払っているのだと考えている。離れていった顧客が、彼の誠実な接客と売り掛けサービスを理解して、再び戻ってくれることに期待している。
コピーライターをしているダイアン・ペッパートさんは、ニュートン・ティンマーマン薬局をホームファーマシーとする顧客の一人だが、「確かに値段はチェン店と比べて高いけれど、私はその技術と信頼に代価を支払っているのです」と、彼の職能に高い評価をしている。
キーンさんの奥さんと三人の子供たちは、彼がサウスブロンクスの薬局からマンハッタンに移るのをまったく予期していなっかった。彼の奥さんも薬剤師で、ニュージャージーからニューヨーク州にチェン展開している「ジェノベーゼ薬局」に勤務している。
彼は15歳のときから学費を稼ぐために、自宅近くのドラッグストアで倉庫のアルバイトをはじめた。彼の得意な学科が生物学と化学だったことから、薬剤師に興味を覚え、アルバイトをしながら進学を目指したのだ。1980年に、セントジョンズ大学の五年制薬学部を卒業すると、彼が十代のころ働いていた小さなウェルドン薬局に、週給1、000ドルで勤めることになった。その後、経営権の半分を買うチャンスをオーナーから与えられ、自ら努力したこともあって商売は順調に伸びて行った。80パーセントの在庫価値が、1年間で12〜13パーセントの値上りをしたのも大きかったという。
サウスブロンクスでの商売は順風漫歩で、一日あたり275枚の処方せんをこなすほどの繁盛ぶりだった。メディケイドをはじめとする公的医療のほとんどを扱ってきた。しかし、薬剤師がどんなに頑張っても、一人の努力では彼の顧客に細部にわたる注意を与えることは不可能だったと言う。
そこでウェルドン薬局を売り、彼のビジネスをマンハッタンに移すことに決めたのだ。キーンさんは旅行客たちに車椅子を貸し出すことが出来ること知らせるため、自らホテルのコンセルジュに名刺を配って歩いた。HITの処方せんサービスも始めた。ビタミンと栄養補給の新しいシステムを顧客に知らせるため、毎週ニューズレターを作って配布してきた。他にも、彼は近隣のメディカルオフィースや託児所に薬の宅配サービスを行っている。
「マネージメントケアに対する抗議は、近隣型独立薬局の存在を維持させるために、どうしても実行せざるを得なかったのです。これまでの5年間、ほとんどの薬剤師は動こうとしませんでした。私は彼らの代弁をしようとしているのです」と、最後に抱負を語ってくれた。