47.医療保険の不思議なからくり
ジョイスの問題も深刻だが、キャロラインの問題に比べたら大したことはない。キャロラインは、数カ月前からジョイスの会社で働き始めた女性で、母子家庭である。キャロライン自身の健康は問題ないのだが、娘が1年ほど前から耳を患い手術を受けていた。ジョイスと違って、キャロラインは前の会社で健康保険に入っていた。自分で負担する掛金は安かったので、キャロラインはこれ位なら良い投資だと思ったからだ。
ところが、キャロラインの会社はまだ新しかったので、大手の保険会社の高い掛金を払うことが出来ず、安いMEWA(多企業福祉協会)に加入していた。MEWAは、大手の保険会社に加入できない中小企業に保険を提供している組織団体である。その殆どは合法的なものだが、弱小組織のため知らないうちに破産してしまうケースも決して少なくない。組織が小さく、適切な担当者の目が届いていないことなどもあって、加入者や病院は赤子の手をひねるように簡単に騙されてしまうこともしばしばである。
キャロラインは、娘の病院から送られてきた請求書を送付したところ、MEWAは支払いを拒否したのである。
「まだ、娘が前夫の名前を使っているんだから、前夫の保険会社が支払うべきだというの」
キャロラインとしては、再び起こるであろう子供の引き取り訴訟を考えても、今さら前夫に頼みこむつもりはない。いろんな友人にも相談した。
「でも、誰に聞いても、そんなのうそっぱちだと云うわ。前夫は離婚の慰謝料も、子供の養育費も払ってくれないし、健康保険などもってのほかよ。それに、私は会社で保険に入ったとき、子供の特約をつけて、その分の掛金も払ってきたのよ」
キャロラインは怒って、MEWAに何度も電話した。しかし、彼らは首を横に振るばかりで話にならない。
「MEWAは、調査員を病院に行かせているとか、ほかに書類が必要だとか言って、時間稼ぎするばかりなの。それだけじゃないのよ。この問題を契機に保険の掛金は2倍に上がってしまったの。そして、これ以上この問題にこだわるなら、保険契約を中止すると上司を脅かしたの」
3週間後、キャロラインの怒りは、恐れにかわった。病院では、保険会社への請求を諦めて彼女に請求書を送り始めたのである。
「最初は手紙でした。弁護士に相談すると、請求書はMEWAに回すようにアドバイスされました。それでもお金を回収できないとなると、会社に電話をよこすようになったの。私は流通センター部署で働いていたんだけど、そこには1つしか電話がありません。でも、病院の人たちはそんなことお構いなし。同じ職場の人たちが聞き耳を立てているなか、1日に2回も3回も電話してくるんです。毎回、違った名前を使うので、私も電話を取らざるを得ませんでした。1週間後、事務所に呼ばれ、会社をやめるよう勧告されました。さもなければ、クビだと言い渡されたんです」
キャロラインの上司は、同情的な面持ちで言いにくそうに口を開いた。
「MEWAとしては、君がこの問題にあくまで食い下がるのなら、会社の契約を取り止めることを真剣に検討していると言ってるんだよ」
会社としても、この契約解除から起こる法的問題に対処できるほどの余裕はなかったし、MEWAはそれを十分に承知していたのです。その後、どうなったのかキャロラインに訊く機会があった。MEWAには州政府の法務長官が調査に入り、問題は未だ解決されていないということだった。
キャロラインの社会的信用はガタ落ちで、この問題が解決するまで、彼女に保険を売ってくれる保険会社は一つもない。現在、キャロラインの娘は、他の町で祖父母と暮らしており、祖父母の健康保険によってカバーされている。
ジョイスもキャロラインも、アメリカの健康保険のシステムの中で一番大きな盲点に落ちてしまったのだ。福祉の世話になるほど貧しくはないが、といって自分で健康保険には入れるほど裕福ではない人たちはたくさんいるのだ。
ジョイスの場合、貧困と戦って得たものからくる欲求不満がある。下手に働いたために州政府からも援助は受けられなかった。だからといって、健康保険を買えるほど稼げるわけではない。
キャロラインの場合は、州法で決められた法律どおり掛け金の安い企業保険に入ったばっかりに、子供にかかった医療費を拒否されている。安い医療費ならすんなり支払われてしまうのが一般的だが、高額な請求の場合は細部にわたって調査対象となる。娘の籍が母親に入っていなかったことが理由として考えられるが、アメリカでは何事においても事実と違った申告をした場合、拒否されるのが常識である。