48.既存症状条項とは
しかし、健康保険の落し穴は低所得者だけの問題ではない。成功をおさめた実業家でさえ契約書をよく読まないと落し穴にはまることがある。カール・サンディガーは、この落し穴に落ちた一人である。カールも生まれは貧しかった。しかし、昔から生活保護だけには頼らないことを決意していた。高校を出ると自動車整備工場で働きながら、夜はコミュニティー・カレッジでビジネスと会計を学んだ。努力が実り、カールはカルフォルニア州のアラメダ郡で自動車のオーダーメードの店を持つにまでになった。
「わしは、貧乏時代をこんなに懐かしがることになろうとは、夢にも思っていなかった。でも、今になってみると、自分の人生を無駄にしてしまったような気がするよ」
カールが以前、得意の会計の技術を使って計算したところによると、彼の作った自動車屋は25万ドルの値打があった。しかし、今では、その2倍を越す医療費の借金を抱えている。
「もともとは、仕事からきたものだと思う。自動車整備の仕事を始めたころ、わしはヤスリを使ったり、溶接の火花を散らしたりしたもんだ。ペンキや溶接剤に含まれている化学物質が身体に良くないとは知っていたが、スプレーする時はどうしても吸い込んでしまうんだ。正直なところ、その頃は何処の店でも安全マスクなんか使っていなかったさ。外科用のマスクを使っている奴もいたが、それはそいつの勝手さ。自分で会社を始めたとき、保険会社のセールスが来て言ったもんだ。『安全マスクを使わなきゃ保険は売らない』と。それで、うちの店では、全員がマスクをつけるようになったってわけさ」
カールにとって、そのルールは遅すぎた。3年ほど前から彼の胸が痛みだしたのだ。
「近ごろ、どうも胸の調子が悪くってね。最初のうちはカゼか何かと思ったんだ。大したことはないと思っていた。いくつもの医者にかかり、いろいろな治療を受けてきたんだが、なにをしてもダメだったよ。やがて、医者はわしの肺が鉱山労働者と同じような症状であることに気がついた」
カールは、自分が如何に病気の治療費に無頓着であったかを語る。
「当時は、死ぬことをもっと心配していたよ。健康保険に入ったから、それで全部安心だと思ったし、げんに初めのうちは保険でカバーしてくれてたんだ」
カールの保険契約書の隅には、治療にかかった費用の25%と疾病に直接関係のない費用は、自己負担しなければならないと小さく書かれてあった。
「一日の差額ベット代が、どれほどかかるか知っているかい?」
しかし、症状が慢性化すると事態はさらに悪くなった。保険会社の弁護士と調査員が病院を訪れ、医療関係書類を丹念に調査し、バクダンを落としていったのである。保険会社はカールの肺の治療に関して、今後一銭も払わないというのだ。
「なんでも、既存症状条項って云うんだそうだ。つまり、保険会社としては、契約者が保険に入る前から持っていた症状に関しては、カネを払う必要がないってこった」
カールの場合が、これに適用されるかどうかは別として、このような条項は多くの医療保険が持っている。保険会社の説明によると、医者は病気の原因は塗装や溶接作業に起因しているのだという。カール自身も作業中、何も自分を保護するものを身につけていなかったと認めている。だから、カールは既存症状条項に当てはまるのだという。
「自分で会社を始めたときは、つくづく、いい保険会社と契約したもんだと思ったさ。確かに、値段は高かったけれど、でも、やっこさん達は頭が良くって、いろいろなことを教えてくれたさ。換気設備まで無料で調査して、改良のアドバイスもしてくれた。おかげで、従業員たちは安全規則を良く知っているし、マスクをしなければクビになることも知っている。でも、掛金の高さにはまいっていたよ。去年に再度掛金が上がったときは、みんなは、とうとう払えなくなっちまった。おかげで、わしは、もっと安い掛金で契約できる別の保険会社を捜がすはめになったってわけよ」
やっと捜し当てた保険会社は、皮肉にもカールの肺の治療費支払いを拒否したところだった。彼は毎月セールスマンがやって来るのを見て、苦々しく昔のことを思い出している。契約内容は基本料金だけでそれなりのカバーを得るものだ。
「ちっとも、むかしと変わっちゃいない。俺たちゃ、払ったものを受け取るだけさ」
キャロラインのように、カールも州政府の健康保険委員会に検討してもらっている。しかし、現在のところ彼の治療には保険が適用されず、請求書がたまるばっかりだ。カールにとって、それはアメリカンドリームの終わりだった。彼の貯金は一掃され、すでにたまった請求書を払うために、会社を売り払うことを決意した。明日からはメディケイド(生活保護者保険)を受けられる水準まで収入も下がり、医療費の心配もなくなる。
「ひどいこった。成功への階段を一歩一歩20年間上がってきて、いまになって、また、一歩一歩下りているんだから……」
小生の事務所に同居していたスペンスのレポートは、アメリカ医療の現実を赤裸々に描いたものだ。彼は典型的なベビーブーマーで、ヒッピー思想の洗礼を受けてきた世代でもある。デイリー読売の記者を経て現在フリーレポーターとして活躍中である。スペンスが指摘するように、アメリカの医療はさまざまなしがらみと損得によって動いている。
富める時代にあってはこれで良かった。だが、パイオニア精神と自由が基本にある米国人にとって、国家丸抱えで国民の医療をみるなどと言うことは常識的に理解できない。ブッシュ大統領の悲願とも云える「すべての国民が、平等な医療サービスを受けられる」とする衝撃的な発想に、国民の多くは戸惑いを生じているのも事実だ。